大阪・関西万博を考える 堺屋太一と小松左京 ~70年万国博覧会に2人が託した夢と思い 元朝日新聞記者 宇澤俊記
「大阪でもう一度、万国博を」と言い続けてきた堺屋太一は2019年2月8日、83歳で亡くなった。その3日後、朝日新聞に掲載された堺屋太一の評伝に小松左京と談笑する写真が載っていた。堺屋太一と小松左京。昭和と平成を駆け抜けた二人の作家は、時として微妙な間柄だったが、70年大阪万博の黒子であり、かつ両輪だった。
堺屋太一は1935年7月、大阪市中央区玉造で生まれた。本名は池口小太郎。父は早稲田出身の在野の弁護士。戦時中、父の実家のある奈良に疎開し、中学3年のときに大阪に戻った。府立住吉高校から東京大学経済学部を卒業、通産省に入った。堺屋は二度目の配属先となった工業用水課で、工場などの地下水くみ上げで深刻化した故郷・大阪の地盤沈下問題を担当した。そして足繁く通うようになった大阪で、経済も地盤沈下しつつあることを実感する。
『堺屋太一が見た戦後70年 七色の日本――自伝』によると、堺屋が万国博覧会に関心を持つようになったのは1963年夏のことだ。上司のお声がかりでお見合いをした。お相手の女性に会ったが、気に入らず、上司に断りに出向いたときのことだ。「『私にはまだしたいことがあるので・・・』といった口実をつくった。それに対して、上司は笑顔でいった。『若い頃には一つのことに熱中してみるのも悪くないよ。例えば、日本で万国博覧会を開くとかね・・・』。このとき『万国博覧会』のひと言に、私は雷に打たれたほどの衝撃を受けた。『世界にはすごい行事があるらしい』と感じたのだ」。
その日から「万国博覧会」の調査を重ね、毎日、謄写版刷りの資料を作って同僚や上司、幹部の乗る運転手室まで配り歩いた。地盤沈下対策で通う大阪でも、大阪商工会議所、大阪市などの幹部を訪ね歩き、大阪経済の復権のために万博招致の必要性を訴えた。堺屋の熱意が実り、1964年4月、政府に知事、市長、商工会議所会頭の三者連名による「国際博覧会の大阪開催に関する要望書」が出る。1964年8月、政府は70年万博日本開催の積極的検討を閣議決定した。1965年4月、パリの博覧会国際事務局(BIE)に万博開催の申請書を提出、翌月受理され、10月には日本万国博覧会協会が発足した。
堺屋は1965年7月に出来た企業局企業第一課国際博覧会調査室に異動、1967年に国際博覧会準備室統括係長、68年には企画局日本万国博覧会管理官付政府出典班長となっている。この間、堺屋の肩書きは順次変わっているが、万博開催のため、企画から予算の獲得まで総責任者として奮闘した。会期が迫ってくると、アフリカにまで足を伸ばし、海外からの出展誘致まで行った。
小松左京は1931年1月、大阪市西区京町堀で生まれた。本名は小松実。父は明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)に学んだが、薬学を捨てて大阪で金属加工の町工場を興した。4歳のときに阪神間に転居し、旧制の神戸第一中学に入学した。
著書「やぶれかぶれ青春記」によると、神戸一中では軍事教練と連帯責任で教官から毎日のようにビンタが飛ぶ日々が続いた。1945年8月15日の玉音放送を聞いたのは、勤労動員先の川崎重工の工場。中学3年生だった。戦後は悪友と闇市に出入りし、学校再開後は、俳優となる高島忠夫らと軽音楽バンドを結成し、出前演奏でアルバイトに精を出した。
1948年に旧制第三高等学校に進学、翌年、新制京都大学文学部に入学した。高橋和巳らの学内の文学同人誌に参加し、文学談義や政治論争に明け暮れ、デモにも参加した。また、同人誌の資金稼ぎに漫画を発表、歌舞伎、落語などの演芸を鑑賞し、雑誌に演芸評を投稿した。卒業後、経済誌の記者になったが、実家の工場を手伝うことになる。しかし会社は倒産、生活は苦しく、漫才の台本作家など職を転々とした。やっと1964年3月に光文社カッパ・ノベルスから出た「日本アパッチ族」が出世作となった。
小松左京が万国博覧会と出会うのは1964年春のことだ。朝日放送のPR誌「放送朝日」に前年から西日本を歩くルポを連載していた。執筆陣に『文明の生態史観』『情報産業論』で著名な梅棹忠夫(初代国立民族学博物館館長)がいた。小松は梅棹が毎週金曜日の夜に北白川の自宅で開く「金曜サロン」に出入りするようになる。サロンから「万国博覧会を考える会」が自発的に生まれ、梅棹、小松、加藤秀俊、川喜田二郎、多田道太郎、鎌倉昇らでスタート、手分けして万国博の調査研究に着手した。
万博招致に動き出した大阪府から梅棹らに接触があり、「考える会」は協会とつかず離れずの関係が生まれる。BIE理事会への正式申請・登録に向けたテーマ作成委員会(委員長・茅誠司元東大総長)が発足し、京大教授の桑原武夫が副委員長に就く。「考える会」は桑原をサポートする形となり、小松らは1965年10月の2週間、泊まり込みで基本理念づくりに当たった。70年万博のテーマ「人類の進歩と調和」はこの基本理念から生まれた。
1970年3月15日、大阪・千里丘陵でアジア初、日本で最初の国際博覧会が開幕した。参加国は77カ国。堺屋太一は前年4月に通産省鉱山石炭局鉱政課長補佐に異動しており、開会式には「生活産業館」の設立企画人として招待された。一方、小松左京はテーマ館問題で万博協会と軋轢が生まれ、テーマプロデューサーとなった岡本太郎から依頼を受けた「テーマ展示サブプロデューサー」という形で関わった。
70年の大阪万博は入場者数が目標の3000万人を大きく上回り、6421万8770人に達した。入場料収入は約373億円、食堂や売店など売上は約525億円に上り、万国博としては画期的な174億円の黒字を計上した。堺屋は成功のカギとして「厳格な『予算管理』、正確な『工程管理』、『安全管理』そして、『収益性の確保』にあった」と振り返る。堺屋と小松が情熱を傾けた万国博は、戦後を象徴する歴史的イベントとなった。しかし、会期中に2人が表舞台に立つことはなかった。
堺屋は万博が起爆剤となって地盤沈下の進む大阪の復権に期待した。ところが、1978年の第二次オイルショック、続く日米貿易摩擦によって、大阪の主力産業だった繊維産業が急速に衰退する。90年代に入ると、製造業が大幅に縮小し、卸売・小売業も事業所数、従業員数とも減少した。商社などの本社機能も相次ぎ東京へシフトするようになった。大阪は西日本の中核都市、集散地としての地位を低下させていった。
小松は2011年7月に80歳で亡くなった。残った資料から小松が万博協会の国内企業向け参加要請説明会で話した原稿が見つかった。その中で小松は「万博は『目的』ではなく『手段』である」として「あくまで、人類全体のよりよい 明日を見出すこと、矛盾を解決し、よりいっそうゆたかで、苦しみのすくない世界をつくりあげて行くことであって、万国博はそういう目標にそった情報の、世界的な交流の場として、つくられなければならない」と書き残している。
テクノクラートで作家の堺屋は、万博で大阪の復活を夢見た。作家で思想家の小松は「不調和」「不均等」「摩擦と緊張」など世界の現状を見据え、万博に人類の豊かな未来を託そうとした。いよいよ来年に迫った「大阪・関西万博」。課題噴出のなか、IR・カジノの『露払い役』だったことが露見して混迷が続く。堺屋と小松の二人が万博にかけた夢や思いが果たして継承されているのかどうか、心許無い限りだ。
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