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古代の難波は輝いていた

~聖徳太子1400年忌まち旅シンポジウムによせて~

2022年2月に聖徳太子没後、1400年を迎える。(財)大阪地域振興調査会などの「聖徳太子まち旅プロジェクト実行委員会」が3月17日に「古代史観光の未来展望」をテーマにシンポジウムを開く。古代史を見つめ、現代に生きる歴史と信仰をベースとした新しい観光を議論し、具体的な戦略を探るのが狙いで、奈良女子大学の河上麻由子准教授が「アジア史の中の難波」、京都府立大学の宗田好史教授が「失われた古代史の資源と新しい巡礼観光の可能性」と題して講演する。

聖徳太子は飛鳥時代、この国初めての女帝・推古天皇をたすけて仏教の興隆をはかり、大国「隋」に使節を派遣、「冠位十二階」「憲法17条」を定め、新しい国造りを進めた。大陸の文化や制度、仏教芸術が東シナ海、朝鮮半島を経て、難波津から大和川を利用して飛鳥の京にもたらされた。難波宮跡が1961年に見つかって60年になる。上町台地では古代の遺構が見つかり、飛鳥の「外港」として栄えた難波が浮かび上がってきた。シンポジウムを機会に聖徳太子ゆかりの地を訪ね、「聖徳太子とその時代、そしていま」を紹介する。(https://sites.google.com/view/shotokutaishi2021)

[聖徳太子とは](574~622)

 聖徳太子は生前、(うまや)(との)皇子(みこ)と呼ばれ、()(だつ)3(574)年、敏達天皇の異母弟、大兄(おおえ)皇子((たちばなの)(とよ)(ひの)(みこと)、後の(よう)(めい)天皇)と(あな)穂部(ほべの)間人(はしひと)皇女の長男として生まれた。用明2(587)年、用明天皇が亡くなると、皇位継承をめぐって崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋が対立、両軍が河内国渋川で激突した。太子は蘇我軍に加わり物部軍と戦ったが、蘇我軍は劣勢で、窮地に陥った。形勢不利をみて太子は()()()を切り取り、素早く四天王の像に作り、(たま)(ふさ)に安置して、「勝たしていただけるなら、きっと護世四王のみために寺塔を建立する」と祈願し、蘇我軍を勝利に導いた。

推古元(593)年、推古天皇(554~628)の摂政となり、蘇我馬子と仏教興隆の国造りに取り組む。中国では南北朝の混乱が長年続いたが、581年に隋が統一し、仏教の興隆をはかり、律令制を整備、人材登用の科挙制度の導入や南北大運河の開削など活気が渦巻いていた。また、隋は高句麗に侵攻するなど、東アジアが流動化していた。

朝廷は推古8(600)年、100余年ぶりに中国への外交使節「遣隋使」を送り出した。遣隋使の一行は隋の都・大興城(現在の西安)に入り、文帝に朝貢した。文帝は倭王の執務のあり方は道理に合わないと訓戒し、鼓吹楽などを下賜した。一行は外交儀礼などを学ぶとともに、中国の文明に触れ、官僚機構の先進性、豊かさ、多様な文化などに圧倒されて帰国した。

聖徳太子らは戻った使節の報告を受けて国内の政治改革、儀礼整備を急いだ。推古11(603)年、海外からの使節団を迎えるための本格的な宮殿・小墾(おはり)田宮(だのみや)が完成し、推古天皇が遷った。また同年、特権的な氏姓制から才能に基づく人材登用を目指して「冠位十二階」を制定し、同12年(604)、官吏の社会規範を説いた「十七条憲法」[第1条の「以和為貴」(和を以って貴しと為す)はあまりにも有名]を発布、官僚機構の整備に努めた。

国内の改革に目処をつけた聖徳太子は推古15(607)年7月、再び遣隋使の派遣を決める。大礼(冠位十二階の官位)の小野(おのの)妹子(いもこ)が大使となり、留学生、留学僧らも加わった。小野妹子は「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、(つつが)無きや」で知られる国書を携え、大興城で第2代皇帝・煬帝に謁見した。煬帝は「天子」の文言に不快感を示すが、宮廷の文官・(はい)(せい)(せい)の派遣を決めた。

裴世清は小野妹子らとともに、推古16(608)年4月に筑紫に到着、6月に飾船30艘の歓待を受けて難波津に入った。8月に難波津から大和川を船で飛鳥に向かう。()石榴()(いち)(桜井市金屋)で上陸し、75頭の飾り馬の先導で、小墾田宮に入った。裴世清は朝廷に煬帝からの親書を伝えた。9月に裴世清は帰途につき、小野妹子は送使として再び留学生や留学僧と隋に渡った。遣隋使は推古22(614)年の5回目が最後になったが、この間、学問僧や留学生が時代の最先端の学芸、思想、儀礼、制度、書籍や文物をもたらした。

 聖徳太子の仏教信仰は仏教保護派の父・用明天皇の影響が大きい。高句麗から渡来した僧・慧慈(えじ)から仏教を学んだ。斑鳩寺、四天王寺を創建し、推古天皇に法華経、(しょう)(まん)経を講義したと伝わる。講義に合わせて法華経、勝鬘経、維摩(ゆいま)経の注釈書「三教義疏(ぎしょ)」を書き上げ、推古朝の仏教興隆を主導した。太子は推古30(622)年2月22日、48歳で亡くなった。死因は父の用明天皇、母の間人皇女、妃の膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)と同じ天然痘とみられる疫病だった。後世、聖徳太子は「日本仏教の開祖」と言われるようになり、伝説的な太子信仰が生まれた。

【まち旅・亀の瀬コース】

◇JR河内堅上駅~大和川右岸~国土交通省亀の瀬地すべり資料室~亀の瀬トンネル跡~亀の瀬岩~龍田古道(龍王社、峠八幡)~JR三郷駅(約2時間半)

[コラム]

 2020年6月、文化庁は「亀の瀬」を含む「龍田古道」を「日本遺産」に指定した。登録されたストーリーは「もう、すべらせない!!~龍田古道の心臓部『亀の瀬』を越えてゆけ~」。龍田古道はわが国最初の官道とも考えられている。「亀の瀬」は大和川の川幅が狭まる難所で、大和の西の玄関口にあたり、交通の要衝とされる。古代からの地滑り多発地帯で、龍田大社や昭和6(1931)年に崩壊した亀の瀬隧道などでストーリーを構成している。

日本遺産は地域に点在する歴史的文化財や伝統などを国内外に発信し、地域の活性化を図ることが目的で、平成27(2015)年に認定を開始し、全国で104件が登録されている。

聖徳太子は推古8(600)年に遣隋使を送り出した翌年、斑鳩宮の造営に着手し、推古13(605)年に飛鳥から移り住んだ。大陸文化の摂取と外交のため、難波津の重要性を見据え、難波に近い斑鳩への移住となった。推古16(608)年4月、隋の煬帝の使者として倭国に着いた裴世清一行は、難波津から水運を利用して大和川、龍田道を経て飛鳥の京へと向かった。龍田道は推古朝で難波津と飛鳥を結ぶ要路となっていく。

万葉集巻三に聖徳太子が龍田道での出来事を詠んだ歌がある。

家にあれば 妹が手まかむ 草枕 旅に(こや)せる この旅人あはれ     上宮(かみつみや)聖徳皇子

(家にいたら妻の手を枕としているであろうに、草を枕の旅路に倒れているこの旅人よ。ああ)

題詞に聖徳太子が竹原井(現在の大阪府柏原市高井田)に出かけた時に、龍田山で死人を見て悲しんで作った歌とある。類似の歌が『日本書紀』の推古21(613)年12月の条にも載っている。推古21年(613)11月の条に「難波から飛鳥までの大道をもうけた」との記述があり、それに続いてこの類似の歌が紹介されている。

また、「亀の瀬」には聖徳太子にまつわる説話がある。鎌倉時代の南都興福寺の楽人(がくにん)(こまの)(ちか)(ざね)(1177-1242)が書いた雅楽の書『教訓抄』に「蘇莫者(そまくしゃ)」という雅楽の曲が出てくる。聖徳太子が亀の瀬を通ったときに馬上で尺八(古代の雅楽に用いられた縦笛)を吹いたところ、信貴山の神が音色に感動して猿の姿で太子の前に現れて舞った舞が蘇莫者というのである。この舞楽は唐の時代に大陸から伝わったといわれ、太子信仰の一つとして太子が交通の難所での安全を願って山の神を鎮めたという説話が生まれたとみられる。いまも四天王寺で太子の命日に催される聖霊会で舞われている。

和銅3(710)年、元明天皇(661~721)が都を藤原京から平城京に遷都すると、龍田道の重要性が増す。奈良時代、天皇はたびたび龍田道を通って難波宮に行幸した。最短路は生駒の暗峠越えだが、傾斜が強く輿や馬は使えない。遠回りだが、高低差の小さい龍田道、渋河道のルートが中心になった。

平城京と難波宮の中間地点に天皇の宿泊のための竹原井離宮が造営され、大和川に河内大橋と呼ばれる橋が架けられた。さらに駅家が設けられ、平城京と難波宮を馬で結ぶ駅路が整備される。生駒山地の西麓、大和川右岸には智識寺を始めとする河内六寺が甍を並べた。智識寺の蘆舎那仏は、聖武天皇が東大寺の大仏を造立する契機となった。龍田道を利用した難波・河内への行幸は元正、聖武、孝謙・称徳、光仁天皇の計16回に及んだ。

ところで、「亀の瀬」は太古の昔から地すべり地帯だった。約4万年前の地滑りで埋まった木片が出ている。万葉集には「亀の瀬」が「(かしこ)の坂」と詠まれ、地滑りは神の仕業で、神を「畏れる」意味として使われた。明治25(1892)年に難所を抜けるため、大阪鉄道(現JR関西本線)が大和川右岸に亀瀬トンネルを完成し、奈良-湊町間の鉄道が開通した。

しかし、その後も大規模な地滑りが続いた。明治36(1903)年、昭和6(1931)年、昭和42(1967)年の3回あったが、中でも昭和6年の地滑りでは大阪鉄道の亀瀬トンネルが崩落し、大和川の河床が9mも隆起した。王寺町周辺はダム湖のようになり、決壊による大阪側の大浸水を防ぐために河床の開削工事が行われた。工事中には1日最高2万人の見学者が訪れたという。鉄道の復旧工事も難航し、鉄道ルートを変更してやっと開通した。旧トンネルは埋まったまま所在不明になっていたが、平成20(2008)年の地滑り防止工事中、トンネルの一部が見つかり、保存されている。

※国土交通省亀の瀬地すべり資料室、亀の瀬トンネル跡の見学は要予約。見学申込み先:大和川河川事務所調査課(TEL 072-971-1381、FAX 072-973-3967、kkr-kamenose@mlit.go.jp

【まち旅・四天王寺コース】

◇堀越神社~金剛組・伶人町~清水寺~大江神社~愛染堂~四天王寺(石舞台、六時堂、聖霊院、西門など)~土塔地蔵尊~庚申堂~悲田院跡~JR天王寺駅(約2時間半)

[コラム]

 四天王寺は、「丁未(ていび)(らん)」(蘇我・物部戦争)で四天王に祈願して蘇我を勝利に導いた聖徳太子が推古元(593)年に造営を始めた。飛鳥時代、都の「外港」難波にそびえる四天王寺は、国家の安泰を祈願する大寺となった。太子の没後、一族は政争によって滅亡するが、奈良時代末に太子の生涯を描いた絵伝が制作されるなど、太子への信仰、伝説が生まれた。

平安時代の資料によれば、寺域は東西約870m、南北約650mあったという。発掘調査の結果、7世紀前半の創建時の瓦が大量に出土しており、飛鳥時代に塔、金堂、中門が南北一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置が出来上がっていたことが分かる。大化の改新後、孝徳朝(645-654)の難波遷都に伴って回廊、南大門、東大門ができ、講堂は天武朝(673-686)ごろに完成した。敬田院、施薬院、療病院、悲田院の四箇院が配置されている。

平安時代には最澄の来訪を機に天台宗と関係が深くなる。藤原道長・頼通ら貴族、鳥羽上皇、後白河上皇らの参詣が相次ぎ、鎌倉時代にかけて親鸞、一遍、叡尊、忍性ら太子を慕う高僧が訪れ、宗派を超えた信仰の場となった。創建から現在まで幾度も天災や火災に見舞われ、危機に陥ったが、その都度中心伽藍はほぼ古跡通り、不死鳥のように復興された。昭和21(1946)年に天台宗から独立、和宗総本山と称している。

四天王寺・西門の外に高さ8.1m、横幅11.8mの大きな石鳥居がある。扁額には「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と草書体で書かれ、国の重要文化財に指定されている。鎌倉時代、聖徳太子への思慕が篤い真言律宗の祖、叡尊(1201-1290)が幕府・朝廷の要請で、内部抗争の続いた四天王寺の別当に就いた。叡尊の没後、紛争が再発し、叡尊の一番弟子の忍性(1217-1303)が別当に就任し、永仁2(1294)年に木造で朽損していた鳥居を石造に造り替えた。

平安時代末期から東北で大地震や津波が起こり、富士山が噴火、京都では群発地震、天然痘など疫病が流行、干ばつや飢饉も相次いだ。末法思想が流行し、貴賤を問わず来世での極楽往生を説く浄土信仰が広がっていた。「日想観」である。四天王寺西門は、西に水平線を臨み、沈みゆく夕陽を拝むことができる極楽浄土の東門と呼ばれ、病人や社会的困窮者が群集するようになっていた。

森鴎外の『山椒大夫』は 中世の芸能の語り物・説経節「さんせう太夫」を脚色、小説化したものだ。小説では四天王寺は出てこないが、説経節「さんせう太夫」では、厨子王は山椒大夫から逃れて四天王寺にたどり着き、石の鳥居にとりついて奇跡の蘇生を果たす。また、謡曲『(よろ)法師(ほうし)』、浄瑠璃『摂州合邦ヶ辻』の題材になった俊徳丸が継母に追われて失明し、物乞いになって行き着いたのもここだった。平安時代から鎌倉時代にかけて西門と石鳥居は民衆の避難所であり、再生への希望でもあった。

人目を引く石の鳥居を建立した忍性は若い頃からハンセン氏病や社会的困窮者の救済に取り組んでいた。貴賤の人々の集まる西門を、単に来世での安楽を願う地としてというだけでなく、現世における救済の場とするため、信仰と助け合いが永遠に続くことを念じてのことだった。また、忍性は貧窮孤老の人々を慈しむため、聖徳太子の残した悲田院の再興を行っている。真言律宗は鎌倉時代、南無仏太子像(二歳像)や孝養太子像(十六歳像)を各地で造立安置するなど太子信仰の中心的役割を担った。

四天王寺はいまも太子信仰、浄土信仰の聖地として参詣者が絶えず、聖霊会、彼岸会、「どやどや」など、年中、多彩な行事で賑わっている。聖霊会は「おしょうらい」とも呼ばれ、太子の命日(旧暦2月22日)に太子の霊を慰めるために行われる法要。明治以降は4月22日に催され、石舞台では創建時から伝わるといわれる「蘇莫者」などの舞楽が演じられる。「どやどや」は新年に六時堂で修される修正会。新年の天下泰平、五穀豊穣を祈願して、裸の若者が牛王宝印の魔除けの護符を奪い合う。長く途絶えていた日想観の法要も平成13(2001)年に復活した。

【まち旅・難波津コース】

◇京阪天満橋駅~大阪城外堀~生國魂御旅所~大阪歴史博物館~前期難波宮倉庫群~難波宮跡~上町谷窯跡、難波京朱雀大路~高津宮址碑~上本町ユフラ広場(約2時間半)

[コラム]

 大阪城の南西の一角、大阪歴史博物館とNHK大阪放送局の南側の広場に古代の倉庫が復元されている。入母屋造りの高床建築で床面積は約90㎡(幅約10m、奥行き約9m)。昭和62(1987)年から4年にわたる発掘調査で16棟の倉庫が整然と並んでいるのが検出された。これら倉庫群は5世紀前半のものと見られ、中国南朝「宋」の正史『宋書』に登場する倭国の五王(讃・珍・済・興・武)の時代に当たる。この大倉庫群の北約800mを流れる大川が古代に開削されたという「難波堀江」のようだ。倭の五王の使節団はこの難波津から出帆して宋に向かった。

飛鳥時代、奈良時代に上町台地にあったとされる難波津や難波宮は、いつのころからか所在不明の「幻の宮」となっていた。戦後、大阪市立大学教授だった山根徳太郎博士が定年退官後、大阪市中央区法円坂一帯の発掘調査に着手し、資金面など苦難の末、執念で昭和36(1961)年に難波宮大極殿跡を探し当てた。以後、付近一帯の発掘調査が始まり、難波の古代の姿が浮かび上がってきた。難波宮大極殿跡は昭和39(1964)年に国指定の史跡となり、難波宮史跡公園として活用されている。また、平成13(2001)年秋に開館した大阪歴史博物館10階の古代フロアでは大極殿が再現され、地下には難波宮の遺構が保存・公開されている。

 近年、飛躍的に進んだ発掘調査による考古学的蓄積と『日本書紀』などの文献史学による解明の結果、難波津は5世紀中ごろから8世紀にかけて国際港湾都市として発展してきたことが分かった。安閑元(534)年、難波屯倉が設けられたとある。屯倉は朝廷の直轄領を指す。難波屯倉は、難波津の管理や外交使節への対応、派遣使節の準備、外交、上町台地先端部やその周辺地域の統治、倉庫とその収納物の管理機能など多面的な性格を持っていた。欽明元(540)年には欽明天皇が重臣をともなって難波祝津宮に来ている。朝鮮半島で百済、新羅、高句麗の対立が激しくなり、緊張が激化するとともに、外交用官舎の大郡、内政用官舎の小郡、外客の宿舎を兼ねた接待用の高麗館、百済館、三韓館などが立ち並ぶようになった。

 難波津は外来の先進文化や文物が届く表玄関でもあった。推古朝(592-628)には、高句麗から聖徳太子の仏教の師となる僧・慧慈(えじ)がやってきた。また、聖徳太子は難波津を通って伊予の湯に出かけた。また、新羅から孔雀、百済からラクダ、ロバが献上されるが、難波津に着いた。さらに推古10(602)年、新羅攻撃のために聖徳太子の同母弟・来目王子と2万5000人の軍隊が筑紫に派遣されるが、多くが難波津から出航したとみられる。

遣隋使も難波津から送り出された。第2回遣隋使の帰国に合わせて来日した隋の使節・裴世清は、推古16(608)年6月15日に飾船30艘の歓迎を受けて難波津に着く。一行は飛鳥に向かうまでの1カ月半、難波津に滞在して歓待を受けた。遣隋使は推古朝で計5回、派遣されている。

難波宮跡公園に大人の背丈より高い巨大な基壇が復元されている。これが聖武天皇(701-756)の造営した後期難波宮の大極殿跡(東西約42m、南北約21m、高さ2.1m)だ。山根博士の発見がきっかけとなってここに二つの時期の宮殿遺構があることが判明した。

前期難波宮は、大化改新の後、孝徳天皇(596-654)が飛鳥から難波に遷都し、白雉3(652)年に完成した難波長柄豊崎宮だ。既成の官衙を行宮に改修して整地、街路、橋梁、池溝、港湾などの整備や河川の治水など基盤整備が行なわれ、『日本書紀』に「言葉に尽しがたいほど立派であった」と特筆されている。朱鳥元(686)年に焼失した。

後期難波宮は聖武天皇(701-756)が同じ場所に再建した。聖武天皇は神亀3(726)年、「知造難波宮事」という役職に藤原宇合を任命し、復興に着手した。天武天皇(?-686)が天武12(683)年に複都制の詔を出して難波長柄豊崎宮の改修を計画していたが、火災が起きて果たせなかった。聖武天皇は、曾祖父の思いを受け継ぎ、整備を行った。後期難波宮は前期とほぼ同規模で、大極殿院、朝堂院、格式の高い五間門などを備え、60年にわたり続いた。

難波津は飛鳥、奈良時代を通じて西日本各地から瀬戸内の水運によって諸物資が運び込まれ、積み替えて大和川や淀川を通って都に運ばれる賑わいあふれる港湾都市だった。大伴家持はその賑わいを「敷きませる 難波の宮は 聞こし()す 四方(よも)の国より(たてまつ)る (みつき)の船は 堀江より水脈引(みをび)きしつつ朝凪に(かぢ)引き(のぼ)り 夕潮に(さお)さし下り」(万葉集4360)と長歌にして万葉集に収録している。また、紀貫之は「古今和歌集仮名序」に、百済からの渡来人・王仁が仁徳天皇の治世の繁栄を願って詠んだという「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」と記し、古代難波津の賑わいを紹介している。

延暦3(784)年、平城京から長岡京に遷都されると、難波宮の大極殿院など一部が長岡宮に移築された。延暦4(785)年には淀川から三国川に通じる運河が開削された。西国からの諸物資は三国川の河口から淀川を経て長岡京、平安京に届くようになり、難波津の重要性が相対的に低下した。

[参考文献]

井上光貞監訳『日本書紀(下)』(中公文庫)/吉村武彦『聖徳太子』(岩波新書)/東野浩之『聖徳太子』(岩波ジュニア新書)/河上麻由子『古代日中関係史』(中公新書)/鈴木靖民『遣隋使の礼制・仏教』(国立歴史民俗博物館研究報告)/気賀澤保規『遣隋使の見た隋の風景』(日文研叢書)/大阪市「新修大阪市史第1巻、第2巻」/南谷美保「四天王寺聖霊会の舞楽」/柏原市文化財課「コラム 龍田古道」(http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2020040800246/?doc_id=13328)/大阪春秋「特集 夕陽のまち おおさか」(通巻No166)/岩崎武夫「さんせう太夫考」「続さんせう太夫考」/週刊「古寺をゆく-四天王寺」/大阪市文化財協会「東アジアにおける難波宮と古代難波の国際的性格に関する総合研究」/栄原永遠男「難波屯倉と古代王権」/産経新聞「古代なにわの輝き」など。

(文責 宇澤俊記)

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