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分断と対立を招いた平成の「政治改革」      ~小選挙区制生みの親・後藤田正晴の憂鬱~     元朝日新聞記者 宇澤俊記

 「政治とカネ」が30年ぶりに社会問題化し、昨年暮れから永田町、この国の政治を揺さぶっている。30年前、新聞に載ったコラムがある。タイトルは「現在史ウオッチング--『並立制』無理があるのでは」。1994年1月25日付の朝日新聞に載った。筆者は尊敬する朝日新聞の政治部記者・石川真澄だ。「5年前の1989年3月はじめ、私は当時の自民党政治改革委員会会長・後藤田正晴氏らから『選挙制度について意見を聞きたい』と求められ、一夜、会食した」で始まる。

石川は小選挙区反対の論陣を張っていた。小選挙区導入を進める後藤田正晴とは面識がなかった。石川が昼に会おうと返事すると、後藤田は「こういう話しは夜が良い」と言う。渋る石川に後藤田は「あんた、政治家の私が席をもつのが嫌なんじゃろ。それならあんたがもってくれればいい」と返した。意表をつかれた石川は後藤田の反対派の意見にも耳を傾ける態度に打たれて財布をはたいた、と書いている。

このコラムは、小選挙区比例代表並立制と政党交付金の導入を柱とする「政治改革4法」が国会で成立するかどうかの瀬戸際に書かれた。前年7月に総選挙で自民党が過半数を失い、8月に「政治改革」を掲げた非自民8党連立の細川護煕内閣が成立する。細川内閣は9月に早々と「政治改革4法」を提出、審議はもめにもめて修正を重ねてやっと衆議院を通過した。参議院でも審議は難航し、1月21日に本会議で否決され衆議院に返付されることとなった。

コラムは「戦後、小選挙区制は56年(鳩山内閣)と73年(田中内閣)に提案され、ともに否定された。ほぼ同じ試みが、今3度目の否認のがけっぷちに立っている。こうしたことなども、小選挙区制が現代民主制によほど向かない制度だからだと見るのが自然ではないだろうか。やはり、政治腐敗の防止策をまず成立させ、選挙制度は有権者の側に立った案に練り直すのが一番の上策だ」と締めくくられている。コラム掲載直後に衆議院の土井たか子議長による斡旋で細川首相と自民党の河野洋平総裁がトップ会談を行い、1月29日に「政治改革4法」が成立した。

30年前の「政治改革」騒動は1988年6月に発覚したリクルート事件がきっかけだった。就職情報誌の発行で急成長したリクルート社が関連会社の未公開株を川崎市の助役に譲渡していたことが分かり、事件は中央政界に飛び火した。自民党は竹下登首相、中曽根康弘元首相、宮沢喜一蔵相、橋本龍太郎元運輸相、梶山静六元自治相、森喜朗元文相、安倍晋太郎幹事長、渡辺美智雄政調会長、原健三郎前衆院議長ら幹部が「濡れ手に粟」の未公開株を受け取っていた。国民の政治不信に竹下は中曽根内閣で官房長官を務めた「カミソリ後藤田」と言われた後藤田正晴を会長に据えて総裁直属の「政治改革委員会」を設けた。

 この委員会は、竹下の辞意表明直後の89年5月22日に『政治改革大綱』を発表する。『大綱』の中で「改革の方向」として「政治と金の問題は政治不信の最大の元凶である。これまでわれわれは、政治倫理は第一義的には、個人の自覚によるべきであるとの信念から、自らをきびしく律する姿勢の徹底をはかってきたが、多額の政治資金の調達をしいられる政治のしくみ、とくに選挙制度のまえには自己規制だけでは十分でないことを痛感した。したがってわれわれは、諸問題のおおくが現行中選挙区制度の弊害に起因しているとの観点から、これを抜本的に見直すこととする」とした。

石川のコラムにあるように『大綱』の方向性をリードしたのは後藤田だ。後藤田は『大綱』発表の1年前に著書『政治とは何か』(1988年、講談社)に「現在の中選挙区制では、政権(過半数)をとるためには同じ党から同一選挙区に複数の候補者を出さざるをえず、このため、政策よりも地盤、看板、鞄がものをいう個人選挙になってしまう。・・・日常的に選挙区の世話をするために払う努力や経費は大変なもので、・・・政治に金がかかるのはもはや常識となっている」と書いていた。続けて「特に現行の衆議院の選挙制度は・・・同一の党から複数の候補者を立てねばならないために、地盤と労力と経費がかかる個人選挙になっており、それが政治倫理問題の“根源”になっている。・・・私は、いろいろな案を研究してみて、『小選挙区制プラス比例代表制』にするのが一番いいのではないかと考えるようになった」と書いている。

後藤田は、国政に初めて打って出た1974年の参議院選挙で、激しい保守分裂選挙の洗礼を受けた。徳島選挙区(1人区)に三木武夫派の久次米健太郎が現職でいたが、田中角栄首相は内閣官房副長官だった後藤田を自民党公認で送り込んだ。県内が二分され、「阿波戦争」といわれる激しい選挙戦になった。結果は久次米が当選、後藤田が落選した。後藤田は元警察庁長官だ。ところが、買収・供応などで検挙された運動員は268人に達した。

当時、朝日新聞徳島支局員として連日のように後藤田派の選挙違反摘発の原稿を書いた覚えがある。20年後、後藤田を法務大臣室でインタビューした。後藤田は当時を振り返り、実に率直に「落選後、違反者の一軒一軒をお詫びのために訪ね歩いた」と話した。『大綱』には後藤田の言葉だろうか、「選挙制度のまえには自己規制だけでは十分でないことを痛感した」と率直な感想が盛り込まれている。後藤田のカネのかからない選挙制度実現への決意が伺える。しかし、これが政権党内で次々と起こるカネにまつわるスキャンダルが政治倫理から選挙制度の問題にすり替わり、その後の流れを形作った。

宇野宗佑内閣で発足した第8次選挙制度審議会は後藤田に近い日本新聞協会長で読売新聞社長の小林與三次が会長に座り、委員には財界人、学者のほか、在京のマスコミ幹部が入った。その後、首相が宇野から海部俊樹と代わり、審議会は海部内閣の1990年4月に「小選挙区比例代表制をとることが適当である」とする答申をまとめた。

海部内閣は「政治改革」を標榜したが、党内基盤が弱く、政治改革法案が廃案になるなどして退陣した。次の宮沢喜一も選挙制度改革法案を提出する。しかし、自民党副総裁の金丸信に対する政治資金規正法違反事件が発覚するなどして、党内は「政治改革」を巡って抗争が激化する。「腐敗防止策」を優先する梶山清六幹事長らに対して元幹事長の小沢一郎らが「守旧派」と攻撃し、自民党は分裂状態に陥った。野党から提出された内閣不信任案が小沢一郎らの造反によって可決、解散・総選挙になだれ込んでいく。

小選挙区比例代表並立制導入後の初の衆議院選挙は1996年に行われた。5年後の2001年4月に小選挙区導入に反対を唱えていた小泉純一郎が首相になる。小泉は候補者の公認権と選挙資金配分の権限を握る党執行部に権力が集中するこの選挙制度の特徴を活用して権力基盤を強めた。2005年9月には「郵政解散」を断行、郵政民営化に反対する政敵に刺客を送り込んで圧勝した。後藤田はその郵政選挙の投票日から8日後に91歳で亡くなった。

NHKが2018年12月22日に放送した「平成史スクープドキュメント『〝劇薬〟が日本を変えた~秘録 小選挙区制導入』」は後藤田が書き残したファイル37冊、メモの束、69束を紹介した。その中に「運用を誤れば成果は上がらない。いや、逆効果さえ生ずるおそれがある」というメモがあった。1988年の著書『政と官』には「中選挙区制は日本人にぴったりである。・・・小選挙区制になると、敵味方が際立ってくる」と書いているが、晩年に至るまで政治改革と政治の行く末を憂慮していたという。

 平成の30年間、この国の舵取りを担ったのは、大半の期間が自民党であり、派閥では「清和会」だ。森喜朗、小泉純一郎、福田康夫、安倍晋三と4人の首相を輩出した。その清和会が今回の「政治とカネ」の舞台になった。常に「規制緩和」と「改革」のラッパが鳴っていたが、令和にかけて名目GDPは世界ランキング2位から4位に転落、格差は就職格差、教育格差、仕事格差、地域格差、消費格差と多方面に広がり、家計に占める食料品の割合を示すエンゲル係数は50年前の水準になった。

石川は1999年、『墜ちていく政治』(岩波書店)という著書に「選挙は主権者である国民の意思が反映された国会をつくるためにある」と書いている。しかし、2021年の総選挙で自民党は、小選挙区の得票率は48%しかなかったが、小選挙区289のうち、189選挙区で勝利し、議席の占有率は65%に達している。いまの制度は過剰代表が著しく、多様化した国民のニーズが反映できているとはとても言えない。

改めて思う。「政治改革」は後藤田らの狙い通り機能したのだろうか。今回の「裏金事件」を好機と捉え、小手先の政治資金規正法の改正だけでなく、引き続き30年前の選挙制度改革に何が欠けていたのか、原点に立ち返り、国会で大いに論戦を展開して欲しい。(敬称略)

(一般社団法人産業能率協会「産業能率」2024年夏季号より転載)

大阪・関西万博を考える              堺屋太一と小松左京                 ~70年万国博覧会に2人が託した夢と思い             元朝日新聞記者 宇澤俊記

                    

      堺屋太一と小松左京~70年万国博覧会に2人が託した夢と思い

                            元朝日新聞記者 宇澤俊記

 「大阪でもう一度、万国博を」と言い続けてきた堺屋太一は2019年2月8日、83歳で亡くなった。その3日後、朝日新聞に掲載された堺屋太一の評伝に小松左京と談笑する写真が載っていた。堺屋太一と小松左京。昭和と平成を駆け抜けた二人の作家は、時として微妙な間柄だったが、70年大阪万博の黒子であり、かつ両輪だった。

 堺屋太一は1935年7月、大阪市中央区玉造で生まれた。本名は池口小太郎。父は早稲田出身の在野の弁護士。戦時中、父の実家のある奈良に疎開し、中学3年のときに大阪に戻った。府立住吉高校から東京大学経済学部を卒業、通産省に入った。堺屋は二度目の配属先となった工業用水課で、工場などの地下水くみ上げで深刻化した故郷・大阪の地盤沈下問題を担当した。そして足繁く通うようになった大阪で、経済も地盤沈下しつつあることを実感する。

 『堺屋太一が見た戦後70年 七色の日本――自伝』によると、堺屋が万国博覧会に関心を持つようになったのは1963年夏のことだ。上司のお声がかりでお見合いをした。お相手の女性に会ったが、気に入らず、上司に断りに出向いたときのことだ。「『私にはまだしたいことがあるので・・・』といった口実をつくった。それに対して、上司は笑顔でいった。『若い頃には一つのことに熱中してみるのも悪くないよ。例えば、日本で万国博覧会を開くとかね・・・』。このとき『万国博覧会』のひと言に、私は雷に打たれたほどの衝撃を受けた。『世界にはすごい行事があるらしい』と感じたのだ」。

 その日から「万国博覧会」の調査を重ね、毎日、謄写版刷りの資料を作って同僚や上司、幹部の乗る運転手室まで配り歩いた。地盤沈下対策で通う大阪でも、大阪商工会議所、大阪市などの幹部を訪ね歩き、大阪経済の復権のために万博招致の必要性を訴えた。堺屋の熱意が実り、1964年4月、政府に知事、市長、商工会議所会頭の三者連名による「国際博覧会の大阪開催に関する要望書」が出る。1964年8月、政府は70年万博日本開催の積極的検討を閣議決定した。1965年4月、パリの博覧会国際事務局(BIE)に万博開催の申請書を提出、翌月受理され、10月には日本万国博覧会協会が発足した。

 堺屋は1965年7月に出来た企業局企業第一課国際博覧会調査室に異動、1967年に国際博覧会準備室統括係長、68年には企画局日本万国博覧会管理官付政府出典班長となっている。この間、堺屋の肩書きは順次変わっているが、万博開催のため、企画から予算の獲得まで総責任者として奮闘した。会期が迫ってくると、アフリカにまで足を伸ばし、海外からの出展誘致まで行った。

 小松左京は1931年1月、大阪市西区京町堀で生まれた。本名は小松実。父は明治薬学専門学校(現・明治薬科大学)に学んだが、薬学を捨てて大阪で金属加工の町工場を興した。4歳のときに阪神間に転居し、旧制の神戸第一中学に入学した。

 著書「やぶれかぶれ青春記」によると、神戸一中では軍事教練と連帯責任で教官から毎日のようにビンタが飛ぶ日々が続いた。1945年8月15日の玉音放送を聞いたのは、勤労動員先の川崎重工の工場。中学3年生だった。戦後は悪友と闇市に出入りし、学校再開後は、俳優となる高島忠夫らと軽音楽バンドを結成し、出前演奏でアルバイトに精を出した。

 1948年に旧制第三高等学校に進学、翌年、新制京都大学文学部に入学した。高橋和巳らの学内の文学同人誌に参加し、文学談義や政治論争に明け暮れ、デモにも参加した。また、同人誌の資金稼ぎに漫画を発表、歌舞伎、落語などの演芸を鑑賞し、雑誌に演芸評を投稿した。卒業後、経済誌の記者になったが、実家の工場を手伝うことになる。しかし会社は倒産、生活は苦しく、漫才の台本作家など職を転々とした。やっと1964年3月に光文社カッパ・ノベルスから出た「日本アパッチ族」が出世作となった。

 小松左京が万国博覧会と出会うのは1964年春のことだ。朝日放送のPR誌「放送朝日」に前年から西日本を歩くルポを連載していた。執筆陣に『文明の生態史観』『情報産業論』で著名な梅棹忠夫(初代国立民族学博物館館長)がいた。小松は梅棹が毎週金曜日の夜に北白川の自宅で開く「金曜サロン」に出入りするようになる。サロンから「万国博覧会を考える会」が自発的に生まれ、梅棹、小松、加藤秀俊、川喜田二郎、多田道太郎、鎌倉昇らでスタート、手分けして万国博の調査研究に着手した。

 万博招致に動き出した大阪府から梅棹らに接触があり、「考える会」は協会とつかず離れずの関係が生まれる。BIE理事会への正式申請・登録に向けたテーマ作成委員会(委員長・茅誠司元東大総長)が発足し、京大教授の桑原武夫が副委員長に就く。「考える会」は桑原をサポートする形となり、小松らは1965年10月の2週間、泊まり込みで基本理念づくりに当たった。70年万博のテーマ「人類の進歩と調和」はこの基本理念から生まれた。

 1970年3月15日、大阪・千里丘陵でアジア初、日本で最初の国際博覧会が開幕した。参加国は77カ国。堺屋太一は前年4月に通産省鉱山石炭局鉱政課長補佐に異動しており、開会式には「生活産業館」の設立企画人として招待された。一方、小松左京はテーマ館問題で万博協会と軋轢が生まれ、テーマプロデューサーとなった岡本太郎から依頼を受けた「テーマ展示サブプロデューサー」という形で関わった。

 70年の大阪万博は入場者数が目標の3000万人を大きく上回り、6421万8770人に達した。入場料収入は約373億円、食堂や売店など売上は約525億円に上り、万国博としては画期的な174億円の黒字を計上した。堺屋は成功のカギとして「厳格な『予算管理』、正確な『工程管理』、『安全管理』そして、『収益性の確保』にあった」と振り返る。堺屋と小松が情熱を傾けた万国博は、戦後を象徴する歴史的イベントとなった。しかし、会期中に2人が表舞台に立つことはなかった。

 堺屋は万博が起爆剤となって地盤沈下の進む大阪の復権に期待した。ところが、1978年の第二次オイルショック、続く日米貿易摩擦によって、大阪の主力産業だった繊維産業が急速に衰退する。90年代に入ると、製造業が大幅に縮小し、卸売・小売業も事業所数、従業員数とも減少した。商社などの本社機能も相次ぎ東京へシフトするようになった。大阪は西日本の中核都市、集散地としての地位を低下させていった。

 小松は2011年7月に80歳で亡くなった。残った資料から小松が万博協会の国内企業向け参加要請説明会で話した原稿が見つかった。その中で小松は「万博は『目的』ではなく『手段』である」として「あくまで、人類全体のよりよい 明日を見出すこと、矛盾を解決し、よりいっそうゆたかで、苦しみのすくない世界をつくりあげて行くことであって、万国博はそういう目標にそった情報の、世界的な交流の場として、つくられなければならない」と書き残している。

 テクノクラートで作家の堺屋は、万博で大阪の復活を夢見た。作家で思想家の小松は「不調和」「不均等」「摩擦と緊張」など世界の現状を見据え、万博に人類の豊かな未来を託そうとした。いよいよ来年に迫った「大阪・関西万博」。課題噴出のなか、IR・カジノの『露払い役』だったことが露見して混迷が続く。堺屋と小松の二人が万博にかけた夢や思いが果たして継承されているのかどうか、心許無い限りだ。