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心斎橋、戦後の記憶

元朝日新聞記者

宇澤俊記


 大阪の真ん中、地下鉄心斎橋駅の西にアメリカ村を訪ねる若者に人気の銭湯があった。「清水湯」と言った。朝5時半に開き、冬至にはユズが浮かぶ。テレビや新聞に載ることも多く、地元だけでなく、ちょっとしたミナミの名所だった。先日、前を通ると、「廃業のお知らせ」が貼ってあった。
 小学校3、4年生の2年間、すぐ近くに住んでいた。敗戦からまだ10年も経っていなかった。父が御堂筋と周防町の交差点のすぐ西で、スクーターの修理・販売店を開いていた。木造2階建てで、1階が事務や修理工場、2階が会議室など。その奥に一家4人で暮らした。当然、風呂はなく、清水湯に毎日のように通った。
 地下鉄の心斎橋駅では、改札口付近で割烹着を着たおばさんが切符の立ち売りをしていた。小学校は越境通学で、その前を通り御堂筋線西田辺駅まで通った。帰ってくるころには白衣を着た元兵隊さんが改札口の前に陣取っていた。足に包帯を巻き、松葉杖を横に置いてアコーデオンや弦楽器を弾いており、前には白い募金箱が置かれていた。
 戦後、GHQの指示で軍人恩給が廃止された。間もなく軍人恩給が復活し、元軍人が姿を消した。女性たちの多くは戦争未亡人で、回数券のばら売りで生計を立てていたといわれる。
 一方、地上には戦争の傷跡がまだあっちこっちに残っていた。昭和20年3月13日深夜から14日未明にかけてB29が274機も襲来し、大阪の中心部を焼き尽くした。残った建物は昭和8年にウィリアム・ヴォーリズ設計で出来た大丸大阪店、昭和10年に村野藤吾設計で完成したそごう大阪店など数えるほどしかなかった。
 御堂筋と周防町の交差点の角地はまだ空き地で、囲いの塀に銀行の名前が刻まれていた。大丸も空襲で上層階が被災しており、やっと7階の大食堂が復旧したばかりだった。
 学校から帰ると、弟と大丸かそごうに行った。大丸に昭和30年6月に上りのエスカレーターが出来ると、繰り返しエスカレーターに乗った。店員の目を盗んで上りのエスカレーターを上から下に逆行して大目玉を食らったこともあった。百貨店が遊び場だった。
 いつごろまでだったのか、そごうが進駐軍のPX(購買部)で、アメリカ兵が御堂筋をバイクで我が物顔で走り回っていた。おそらくハーレーダビットソンのサイドカーだったと思う。格好良く思った半面、子供なりに屈辱感を抱き、敵がい心を募らせた。
 心斎橋筋にはまだアーケードがなかったが、賑わいはよみがえり、グリコのネオンサインが復活したのもこのころだった。父と母がケンカした夜、母親に連れられ、弟と3人で戎橋まで出かけた。法善寺の「すし半」で丼物を食べ、親子3人でネオンサインにしばらく見とれていた。
 いま、御堂筋と周防町の交差点、銀行の跡地に、「APPLE心斎橋」がデンと店を構える。旧居のあとに6階建てのビルが建ち、向かいの関西電力道頓堀変電所の壁にはアメリカ村のシンボルとも言える黒田征太郞のイラスト画「PEACE ON EARTH」が壁面を飾っている。
 清水湯は、昭和38年に経営者が代わり、昭和60年には火事にあった。当時、新聞記事で見舞金が寄せられ、再建にこぎ着けたと読んだ。2年前に休業したらしい。貼り紙には「再開を目指しておりましたが、店主、健康上の理由により、今般、廃業させていただくことになりました」とあった。
 大丸が建て替えを行い、そごうもなくなった。一帯はいま、海外からの観光客で大賑わいだ。来年は戦後80年、戦後という時代の記憶がまた一つ、消えようとしている。